いつか記憶から零れ落ちるとしても

思いやりのある優しい男の子

雪解けとかそうじゃないとか


そのうち消すと思う
結論を出したのでも導いたのでもなく、今思うこと






「れんしょ」はシンメじゃなく「コンビ」もしくは「セット」だと昔も今もこの先も思ってる。



私は以前こんなこと
上澄みを掬う - いつか記憶から零れ落ちるとしても
を平野くんについて書いたし、何度か2人についても書いてきた。(カテゴリー:sh,rn,note,thinking参照)
きっと9割9分、いや全て間違っているだろう。
今でも私には平野くんがどんな人なのかわからない。
「わかる」ことなんて一生かかっても出来ないことだとも知っているけれど。


去年の博多座期間の雑誌を読んだ時に
「紫耀さんって本音に近いような言葉等を文章に織り混ぜて出してくるイメージだったけど、今回はそれらを纏めて語っている印象。あぁやっぱりこの人が言ってることは(実は)一貫している、一本筋が通っている、と言うか核を持っている人だなぁと改めて思った。だから時折わざと適当なことを言って誤魔化してる(はぐらかしてる)のかなって気もする。いつ聞いても語っても本音に近いことだけは正確だから。それにしても俯瞰的に物事を捉えてる印象を受けた。」
と書いた。
あと、承認欲求が強い人だと思っていたけれど、この時に平野くんだけを摂取する機会が増えて、平野くんは周り(大人・世間)から自分の実力(技術力=スキル)で認められたいのかなと思った。


スキルと言えば、ここ数年はダンス(の技術や意見)で見合う相手としてかいちゃんが存在する。
平野くんがかいちゃんを挙げているし、実際コンサートでは2人で息の合ったパフォーマンスを見せる。
一方れんくんは名前が出るものの、平野くんの語るダンス(と自分)の世界に介在しているようには私には取れなかった。
それは至極当然のことだ。
かいちゃんは元々ヒップホップ出身。
れんくんはジャニーズに入ってからダンスを始め、きっと苦手な分野に入る。素人目で見てもれんくんは下手だった。
プロレベルの平野くんの隣に並ぶことは無理だなんて百も承知。
自分と同じ基準や理解を求める平野くんにれんくんが追い付くことは難しく、彼の意識(選択肢)の中に存在もしてなかったと思う。

長年隣に居ても、だ。
そのうえ、いつしかプライベートでも交流はなくなり、ステージ上でも見るからに仲良くなさそうで触れ合うこともなくなった。
もはやスキル云々の話ではなく関係性自体拗れてるのか…と。
八方ふさがりであらゆる意味で無理なんだな…とちょっぴり悲しくなった。

隣に居る、どころか、もはや ただ横に居る
そんな風に感じた時期もあった。


そんな状態(2:1)が続いていて見ているだけのくせに勝手に疲れてばかりいたのだけど、ここ最近少しだけマシになった気がする。
風向きが変わったと言うのが正しいのかな。
未だにれんくんに対して平野くんは塩対応だけどね(苦笑)

そう思ったものの、ぽぽろのメッセージを読んでも、私はみんなが言う「感動」とまでは行かなかった。
ただ いつまで経っても平野くんはれんくんよりお兄ちゃんだと思った。
「れんくん“の”」ではなくなったけれど。
れんくん“より”お兄ちゃん。
平野くんからすれば、一度もれんくん“の”お兄ちゃんではなかったかもしれないけれどニュアンス的に。
隣を独占し相手してもらって守ってもらって隣に置いて精神面もスキル面も育ててもらってた期間はそんな風に見えなくもなかった、という話。
一応当時誌面でれんくんのことを実の弟と年齢が同じだと話していたので、弟に近い認識はあったんじゃないかな。
今では弟みたいと言われる相手はかいちゃんに変わってしまったけれど。

片方は早くに内面が成熟、しかし成熟してから精神年齢が一旦止まった間に実年齢が追いついてしまったように見えていたのだけど、去年辺りからまた精神年齢が進み始めた気がする。
個人仕事を数こなしたからだろうか。
とは言え、いつも平野くんはれんくんより上手(うわて)で賢くて大人という認識は崩れることはなかった。
精神の歩みを再開してから、れんくんより一歩も二歩も先を進みながらも追いつくのをまた待っている気もする。着いて来ているか時折確認している気もする。

そして片方は昔は年齢より子供(それこそ甘えん坊)だったけれど、今は割と年相応になった気がする。
あのベタつきようをよく平野くんは受け入れてたなと思う。面倒で鬱陶しかっただろうと思う。
そんな光景を見るのが好きだったけれどそう思う。
振り返れば振り返るほどベタつきが凄かったとしか出て来ない(失笑)
まぁ今でもガキっぽいところはあるけど(苦笑)

平野くんはれんくんに独り立ちして欲しいと思ってたのかなぁなんて数年前(上京時)を振り返って最近たまに考える。
独り立ちと言うか深く内側(内面)まで見れるよう思慮深く賢い選択を出来るよう(人に)成長して欲しかったのかなって。
頼れる相手だったら頼りたかった部分もあったのかなぁなんて。
自分をわかって欲しかったのかもしれないって。
いくら考えたってわからないことだが…。


すれ違い、と言うか上手く噛み合ってなかった歯車がまた回り始めた、そうだとしたら良いな。
仲良しこよしで活動する必要はないと思っている。
それでも関係性がグループの雰囲気を左右してしまうのも事実。
だから良好な関係であってくれると嬉しい。

かいちゃんは2人の橋渡しをしてくれていて有難いとずっと思っている。
かいちゃんは潤滑油。
かいちゃんから始まったユニのようなものだけれど、かいちゃんが居てくれたからキングは3人は続いてると思うんだよ。
かいちゃんが居なかったら今のキング(3人)はなかったと思う。


とても私個人のエゴでしかない話で多方面に失礼極まりないのだけれど、
隣に居る時から、平野くんにとってはスキルや年齢の差から難しくても、せめて平野くんのファンからは隣の人として認めて欲しいと思ってきた。
セット売りをされるようになっても、隣で頑張るようになっても、3人ユニットを越えられなくて、悔しくてたまらなかった。
本人にとって認められる必要はないのだろうけれど、追い付こうとする頑張りや憧れ等が(目に見える形で)報われて欲しかった。
今でもそれは時々思う(苦笑)
一緒に活動するならば、隣にいることの存在意義があって欲しい、大切な存在になって欲しかったという黒々とした私の最低なエゴで申し訳ない(苦笑)
そして、たぶん今も敵うことが叶うことがない。
同じグループになっても、そこはなかなか厳しいように感じる。


添え物でしかない様子がつらかった。
大好きな人をそんな風に思いたくないけど、見ているとそうとしか捉えられないことが多々あった。

だから今回の帝劇では終始ショウに寄り添う・理解を示す役を演じていたことにほんの少し驚いた。
台詞や出番は少ないけれど、大事な要。
適役だと思われたんだろうか…。
事実(現実においての関係性)も役回りも今までとは変わったことになる。

レンの台詞にこうあった。
「俺たちの未来はショウと共にある」
これって捉え方によってどうとでも取れるなぁと思い少し微妙な気持ちになる。
仲間を大切にしている発言である、ショウが居なければ始まらない、ショウが中心である、ショウが一緒じゃなきゃ意味がない
様々な考え方があると思う。
私の中ではショウが中心という意味合いを強く感じた。
何なら、感覚的な話になるけれど、今回の舞台は紫耀さんのために造られたように感じた。
主役という意味でなく、紫耀さんをジャニーズの平野紫耀としてたらしめるためと言うか。
ある種の洗脳であり閉じ込め繋ぎ止め逃げ場をなくすような感覚。

そんな舞台で上記のような台詞をレンに言わせたことの意味を考え始めると、やはり最初の問いに戻る。
れんくんに任された・当てがわれた役目。
れんくんなら紫耀さんを支えられると思われたのだろうか。
紫耀さんが必要としていると思ったのだろうか(思われたのだろうか)
それとも、れんくんが紫耀さんの隣に居て欲しい・れんくんが紫耀さんの支えであって欲しい・味方であって欲しいという願いみたいなものを役を通して託されているのだろうか。
深読みしすぎかな(笑)

今は何かが変わったのかもと漠然としたものしか浮かばない。
2人が冷えた関係になった時からセットで居なくても良いと思うようになっていたところにやっぱり一緒に歩んで行ってくれた方が強いかもしれないと思い直させられる。
どうなって行くのか一ファンの私には全くわからないけれど、そこにれんくんがいる限り見守りたいと思う。



本当にかなり些細なことだけれど、私はぽぽろの言葉よりもGINZAで紫耀さんがきちんとれんくんの誕生日を覚えてくれてることが嬉しかった。
誕生日は生まれて人生で初めての記念日、特別な日。

みんなの誕生日もちゃんと覚えてる。
廉は「イチニサン」で1月23日。

どうとでも作り変えられる言葉よりも頭と心に刻まれているであろう記憶にちゃんとれんくんが収められている。
そうわかって嬉しい。